人は弱くも強くもなれる

精神科や心療内科には、いわゆる「メンタルが弱い」と自分で思っていたり、周りからそう思われている人が多く受診します。そのような人々と多く接していて思うのは、本当にメンタルが弱い人も、本当にメンタルが強い人というのもいない。人はいくらでも弱くなってしまうし、いくらでも強くなれる、、、ということです。
心の問題を抱えて専門家を受診すれば、うつ病、発達障害、パーソナリティ障害、統合失調症など、なんらかの診断名が付きます。すると診断名が一人歩きし、その人が持っている属性、アイデンティティのようになってしまいます。「普通の人」とは違う、精神的な病気・問題を抱えている人ということになります。
そのような属性が必要な時もあるでしょう。例えば、薬をもらうために、仕事を休職するために、障害年金を受給する時などです。
しかし、そのような病名も、メンヘル(メンタルの弱さ)も、その人が持つ固定的な属性ではなく、人が生きる状況によって流動的です。つまり、生きている状況により、人はいくらでも弱くなってしまうこともあるし、その逆にいくらでも強くもなれるということです。
その状況とは何か?
他者との関係性です。
人ひとり一人はちっぽけな弱い存在です。ひとりでは生きていけません。
他者の支えがあって、初めて人は人らしく生きることができます。
他者から愛され、見守られ、自分の存在を認められることで、人は安心し、逆境を乗り越える強さを得ます。
逆に、愛され、認めてくれるはずの人がそうしてくれないと、自分の存在意義を見失います。不安の悪循環に陥り人は弱くなります。
いかにして安心できる関係性を築き、維持できるか?
それを支援するのが私の考える家族療法の極意です。
人の安心感や不安感はそう簡単に他者が操作できるものではありません。
まず、支援者が関係性の文脈の中に入り込み、何でも隠さずに話し合える安全な文脈を作ります。
それを実現するために大切なことは具体的なテクニックや介入方法ではありません。
その背後に、支援者自身が安心感を保持できているかということが一番大切です。
私にとって安心できる文脈、、、それが高山村のこの古民家なのです。
古民家療法というのは、私にとっての命名です。
どうやって安心の文脈を作り上げていったかという話です。
それは、ただこの古民家の環境がどうのという話ではなく、私がここにたどり着いたまでのプロセス全体を指します。
他の人生を生きてきた他者が、同じように古民家という場所を使ったとしても、意味が違います。

どういう経緯で私がこの古民家にたどり着いたか。
それを開示することから、私の古民家療法は始まります。

年頭のご挨拶

2022年。
明けましておめでとうございます。
普段は、去年再婚した妻と二人で高山村に住んでいます。東京と横浜に住んでいる成長した子ども達は、普段は寄り付かなくても、お正月にはなぜか集まってくれます。今は、元旦の早朝。これから夫婦ふたり合わせて五人の子ども達が集まり、賑やかなお正月になるでしょう。

昨年の出来事は、、、
6月に2歳下の妹を亡くしました。
この15年間に多くの家族を失いました。
13年前に妻を。
その後、父親と母親を。
そして、妹。
一番初めに最大マグニチュードの喪失が来てしまったもので、その後の喪失は比較的楽だったとも言えますが、妹の死はいまだにどう整理して良いのかよくわかりません。
妻と両親は、私自身が悲しみの一人者であり、堂々と悲しみ、ブログなどにも書きまくりました。妹の場合、悲しむ主体は彼女の夫や子ども達であり、私は傍系だろ、彼らの先を越してはダメだよみたいな気持ちもあり、あまり書いていないんです。
妻の死は、それまで空気のように満ちていた愛着の存在とその重要性に気づかされ、両親の死によって親に対する愛着に気づき、再婚する気持ちに至りました。これらは自分の人生を揺るがす大事件でした。
妹の死の場合、残念ながらそこまでは至りません。現在の日常生活には必要ない人だったからです。でも、大切な家族でした。二人きょうだいで幼少時は仲良く、思春期は派手に兄弟ケンカして、20代にはケンカも落ち着きお互いの友人達と交流してよくスキーに行ったり。お互いに結婚してからは付かず離れず、時々お互いの家族が集まったり、小姑役を演じて私の妻と戦ったり。その妻を失うと近づいて来てくれて、広尾での個人開業中はずっと事務をやってくれました。群馬に移住してからは会うことも少なくなり、私の再婚に到る中でまた距離を離してゆきました。亡くなる1年間くらい会っていなかったのですね。

つい3日前、高校山岳部の仲間の一周忌にあたり、山岳部の仲間たちと「追悼」と称して山岳部ご用達の居酒屋に集まりました。
つい先日、学会の大切な仲間に末期ガンが見つかりました。

「喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただきます。」
悲しんでいる最中だから、喜びたくない、、、その気持ちはよくわかるのですが、私はあえて悲しみと喜びを一緒に味わいたいと思います。なぜなら、その両者は表裏一体だから。
新年を迎え、家族が集まり生きている喜びをお祝いしても、子どもたちはそれぞれの生活の場に去っていきます。生きる喜びは刹那的です。
逆に悲しみからスタートし、人生のはかなさに向き合えば、健康に生きていられる喜びを素直に受け止めることができます。
 私は職業柄、多くの人々の死に関わって来ました。そして、この13年間、大切な人を失い、このように考えるようになりました。

コロナ不安を乗り越える術

先日は皆さんとオンラインですがお会いして対話できたことを嬉しく思います。このような機会が持てたのもコロナのせい、我々が「不安」を共有しているからかもしれません。コロナのpandemicがなければ、あえてこのようなミーティングも開かれなかったと思います。ミーティングでお話ししたことと重なりますが私の気持ちをお伝えします。

★あいまいな喪失 (Ambiguous Loss)
 10年前の東日本大震災の直後、私は被災地のひとつ陸前高田へ駆けつけました。そこは町中が瓦礫の山となり、避難所で生活する被災者たちを支援するボランティアたちが全国から集まっていました。そこで有用だった概念が「あいまいな喪失」です。大切な人や物を失うことはとても大きな心の痛みを伴いますが、もっと辛いのが「あいまいな喪失」です。津波で流され、遺体が発見されれば、そこから喪の仕事(mourning work)を始めることができます。しかし、生きているか亡くなっているかもわからない状況では、悲しみのプロセスさえ始めることができず、いつまでも不安を抱えなければなりません。そのような人たちへの心のケアをどうしたら良いのか。これはとても困難な作業でした。アメリカの心理学者で家族療法家であるPauline Boss氏が何度も日本に招かれ、オンラインも含め我々国内の心の支援者たちを支援してくれました。その活動の中で生まれた二冊の本をご紹介します。

・ポーリン・ボス著「あいまいな喪失とトラウマからの回復:家族とコミュニティのレジリエンス」 誠信書房、2015。
・黒川 雅代子編著 「あいまいな喪失と家族のレジリエンス: 災害支援の新しいアプローチ」 誠信書房、2019。

★不確実さ(不安)に耐える力
 よく考えてみれば、生きていること自体が「不安」の連続です。不安であることを考えること自体が不安ですので、普段我々はそのことをあまり意識化しません。でも、今回のPandemicは世界中の人々を不安に陥れました。とても辛い状況です。しかし、それぞれの人が持つ固有の不安ではなく、全ての人たちが共通した不安を抱えることができます。そこから、人々との対話や交流が生まれます。
 思春期は不安の時代です。幼い子ども時代は親や周りの人たちに保護され安心した生活を送ります(それが叶わない子ども達もいますが)。大人になれば、仕事や家族を持ち、一応それなりに確定した自分の生活を獲得します(そうでもない人たちもいますが)。思春期は親の庇護から自立し、自分自身を作ろうとしますが、高校生くらいの年代ではまだまだ確立できていません。自分はいったいどういう人間になるのだろうか?不安でいっぱいです。
 異文化体験も不安でいっぱいです。見知らぬ土地で、文化も人も言葉も異なる環境に投げ込まれます。受け入れる家庭や学校も同様です。良い子かもしれない、とんでもない子かもしれない。生徒も受け入れる側もそのような不安からスタートします。それが徐々に「安心」に変化していくと、大きな喜びに変わります。
 いったいどうなるかわからない、危険かもしれない、失敗するかもしれない、、、そのような不安に耐えることはとても苦しく困難です。しかし、それを乗り越えた喜びもまたとても大きなものです。
 生きている以上、多かれ少なかれ「不安」を避けて通ることができません。不安を回避するのではなく、不安であることを受け入れることからスタートします。

・レジリエンス (Resilience) =困難から立ち直る力
 この言葉は最近よく聞かれるようになりました。
 反対の言葉は「脆弱性 vulnerability」です。人は誰でも心身を壊したり、病気に罹患する弱さを抱えています。基礎疾患を抱えている人はコロナに罹りやすいというのがその例です。今までの医学は、いかにして人の脆弱性を見出し、それを取り除くことによって病気を回避するかという考え方が主流でした。レジリエンスという概念はそれと対比される新たな考え方です。人は誰でも「弱さ」とともに、困難から立ち直る力(強さ)を持っています。その隠された力を発揮することで人は困難を乗り越えることができます。
第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に収監され、多くの人々が死んでゆく過酷な環境を生き延びた(いわばレジリエンスを発揮した)精神医学者ヴィクトル・フランクルの古典的名著「夜と霧」は我々に苦難を生き延びる勇気を与えてくれます。
平穏無事で順風満帆の時にはレジリエンスは見えません。苦難な時だからこそ、人の本当の強さを活かすことができます。どのようにしたら人はレジリエンスを発揮できるのでしょうか?いろいろな考え方がありますが、私は「人と人との絆」と考えます。強さで繋がることは容易です。弱さで繋がることができると、強さが見えてきます。孤独や孤立は心を弱くします。メンタルのリスク要因です。仲間同士、生徒と家庭、生徒とボランティアなどなど、お互いの不安を伝えあい、認め合い、共有できれば、状況は変わらなくてもその不安を受け止め、生き延びる元気が生まれます。

 以上のように考えれば、苦難のこの時期こそ文化を超えてお互いに支え合う我々の活動には深い意味があるように思います。


 ある支援者のミーティングの後で、田村先生からの言葉が欲しいと求められたので書いた文章です。一応、書いて送ったんですが、こんなので良いのでしょうか?私自身にとっては当たり前というか、陳腐というか、わかりきったことで、あえて書くことのほどでもないように思ってしまうのですが。。。
 そうではないですよね。お伝えする意味はありますよね!