グループSVの参加者から

今日で2025年度のSVは終わりです。ご参加ありがとうございます。みなさんにとっての体験はどうだったでしょうか?全体を通しての振り返りがあれば紹介してください。前期が終わる時にも同様なお願いをしてブログにあげました。

・ケースについてやりとりすることの大切さ
・あたたかい空気感・雰囲気
・間違っても恥をかかせない安心感
・ケースを立体的に見られるようになる感覚
・多様性に富む視点
・家族療法を再確認する場
・ケースをまとめる過程で得られる新たな気づき
などが私の印象に残りました。

毎回、こうやって振り返るのも大変ですし、書きたい人だけで結構です。人は何か心が動いた時、それを表現したくなりますよね。あまり動いていないのに何か書こうとしてもあまり出てきませんから無理せずに。何か書きたいことが出てきたらお願いします。もうちょっとこんな風にしてもらいたいという要望もどうぞ。

スーパーヴァイザーとしての私(田村)の振り返りとしては、、、
やはり家族療法的な視点をお伝えしているんだろうなと思いました。
ほとんどの場合、支援を必要としている人、問題を持っている人は「個人」ですから、我々は一生懸命にその個人のことを理解して、支援しようとします。でも、ケースをまとめたり、私からの視点を参照してもらうと、ケースにピッタリ張り付いた立ち位置から、鳥でもドローンでもいいですが、上空から(少し離れた立ち位置から)全体像を眺めることができます。問題を持っているのは個人ですがその周りの関係性(家族や学校や地域やら)が見えてきます。見えたのはいいのだけど、じゃあどうやって関係性を支援するのだろうか?
そのあたりに焦点を当てる場合が多いように感じました。

再び田村です。みなさんのreflectionを読んで、re-reflectionです。
一般的に、SVで事例を提示する中で、事例そのものに焦点が当たりがちです。私はスーパーヴァイザーとしてSVを行っている時、スタンドアローンの事例そのものだけでなく、「クライエントとセラピストとの関係性」、さらには「支援者としての自己」にも焦点を当てます。対象であるクライエントの特性を理解することばかりでなく、支援する自己の特性を十分に理解することが、支援者としての本当の成長につながると考えています。
日本語が拙くても全く問題ありません。
私の英語が拙く、自信を持てなかった英国留学時代を思い出します。英語が母国語の同僚たちのように自由に自分を表現したり、相手の言っていることがよくわからなかったり、辛い思いをしました。でもそれで構わないと思います。同じ母国語どうしのコミュニケーションでも自分を表現できなかったり、相手の言っていることがわからないことはよくありますから。

合宿の参加者から

昨年9月、群馬県高山村にある思春期・家族精神科医・田村毅先生の「たむらたけしこころの診療所」で開催された「家族療法 ジェノグラム合宿(こころのパンツを脱ぐ)」に参加しました。2泊3日、円座になり、ジェノグラム*を媒介に自らの家族について語り合う時間です。「話す」と「聴く」を丁寧に分けた対話の積み重ねは、静かで、かつ深く心に残るものでした。

参加者は臨床心理士、ソーシャルワーカーなど、対人支援に関わる方が多く、古民家をリノベーションした診療所に宿泊しながら学生時代の合宿のような雰囲気で過ごしました。近くの温泉に入り、夜は奥様の手料理やバーベキューを囲み、自然と交流が深まりました。とてもあたたかく、心がゆるむような時間でした。

診療所の周囲は自然豊かな山間部です。こんにゃく芋の畑や大きな栗の木、竹藪のそばを流れる小川など、豊かな自然に囲まれています。猛暑日が続いた9月でしたが、高山村ではクーラーが不要なほど涼しく、古民家の診察室に置かれた薪ストーブの姿を見るだけで場があたたかく感じられました。安心できる環境の中で語ること——その「場」の力を、身をもって体験した時間でもありました。

これまで私は、支援の場で相談者のジェノグラムを描くことはあっても、自分自身の家族を丁寧に描き、語ることはしてきませんでした。リフレクティングを受けながら家族の物語を見つめ直すプロセスは、家族システムを少し外側から眺め、再び意味づけていく作業のようでもありました。繰り返し語り、聴いてもらう中で、家族関係をより立体的に、そしてどこかやわらかく捉え直せたように感じています。

合宿後、日常の臨床に戻った私は、目の前の親子を「二人」としてだけでなく、その背後に広がる家族の文脈ごと想像するようになりました。パートナー、祖父母、きょうだい——家族システムの力動は、母子の相互作用にも静かに影響しています。そしてその物語は、丁寧に聴かれることで、はじめて姿をあらわします。

小曽根 秀実『家族、対話、母乳育児』ぐんま母乳育児をひろめる会ニューズレター第22号より一部転載

はかない現実

これを書きながらも自己嫌悪で胸が苦しくなります。こんな自分の恥を晒すような話はしたくない。その一方でちゃんと懺悔しないといけないとも思ったり。

客観的に見れば明らかにおかしい話です。横でやり取りを聞いていた妻が忠告してくれました。被害が5万円で収まったのも妻のお陰なんです。妻がいなければもっと取られていたと思います。

テレビでもメディアでもしょっちゅう流れている典型的な詐欺の手口。相手とやり取りしながらも、これは詐欺ではないだろうかと念頭にはあったものの、結局始めの知り合いからのメールをそのまま信じちゃったんですね。

言い訳すると、国際交流って、相手の文脈がわからなくても、疑心暗鬼を乗り越えてよくわからない相手を信用するしかないんですよ。前に進むには。
高校留学も、イギリス留学も、今やってるアジアでの交流も。
それとこれとは違うんですけどね。言い訳です。

妻の助けで詐欺であるという認識に切り替えることができた瞬間、すごい自己嫌悪に陥りました。なんてオレはバカなんだろう。なぜ、あんな風に信じていたのだろう?
自分の判断力にすっかり自信をなくし、3-4日間落ち込んでいました。

こういうのをゲームチェンジャー (game changer)と言うのでしょうか。今までの確かな現実があっという間に崩れ去り、まったく違う現実が現れます。

なにしろ、始めのメールを信じてしまったので、その後も電話でやり取りしながら、おかしいなぁ、これは詐欺の手口としてあり得るよなぁと思い、妻が「騙されているでしょ!」と横で警告してくれていても、とっぷり詐欺の現実の中にいてそこから抜け出せませんでした。

現実とはそれほどはかないものなんですね。歯痛さえも自分の脳のなかで感じていることと捉えればひとつの現実に過ぎないし、歯の治療をしなくてもその現実(痛みの認知)は変わりました。

戦前のヒトラー時代のドイツではユダヤ人排斥が、戦前の日本では大東亜共栄圏構想が、それぞれ正しい現実であり、敗戦とともに崩れ去りました。現在のアメリカ大統領が掲げるMEGA (Make America Great Again)が正しくイランが悪という現実も、きっとひとつのはかない現実に過ぎないものなのでしょう。

人は信念を持たねば生きていけません。信じることはそれほど大切なものです。

しかし、その確固たる信念も、どこかで崩れ去り、新たな現実や正しさにとって代わる可能性もあるのだということは常に心掛けなりません。

しかし、よく考えれば多層現実があるから救われる側面もあるように思います。ひとつの現実の中で構成された苦しみが、別の現実にすり替えることで癒しにつながる。たとえば宗教が作り出す世界です。日本人は「宗教」で痛い経験をしてきたからあまり良いイメージが持てませんが、犯罪やトラブルを引き起こす側面だけではなく、救われる側面もあるはずです。もともとそれが宗教の果たす役割ですから。

また、Psychotherapyも同様です。「なまけ」、「不登校・ひきこもり」、「ゲーム依存」、「現実逃避」、「うつ病」、「発達障害」、「統合失調症」などの問題に苦しむ人たちに、異なる新たな現実を提供することでそれらの現実から救われるgame changerの側面もあります。