大森相談室

 5年前に高山村に移住してから、毎月、東京大森の自宅に戻り、月に3日間だけ診療しています。
 大森の「相談室」は、私が生まれ、育った自宅です。高山村に移住する前は港区西麻布のビルのワンフロアにオフィスを借りてフルタイムで診療していました。移住したのでそこは手放し、自宅の1階を改装し診療スペースを作りました。東京へはいつも新幹線で行きます。上毛高原まで車で20分。高山村の駐車場に車を停め、新幹線で東京まで70分ですから、往復すること自体はそれほど難儀ではありません。
 しかし、高山村にも慣れ、生活のベースをすっかりこちらに移した今でももこうやって毎月東京に往復する二拠点生活を続けるのか、それとも東京での診療はやめて群馬だけにしようかなどとも考えたりします。
 高山村の生活は良いです。やることもたくさんある。週3日(月火水)は渋川市の病院で非常勤、つまりサラリーマン生活で、残りの4日は高山村です。夏は畑で野菜を作ったり、冬は薪を作り、スキーに出かけて。患者さんもそれなりに来てくれます。都内ならまだしも、こんな「田舎」で自由診療の精神科なんて。。。とも考えましたが、この近辺の群馬県内からも、また東京など首都圏から関越道を車で来てくれる人もいます。
 東京より、高山村の方が治療効果が高いように思います。都会と田舎では時間の流れが異なります。大森での診療は60分、高山村では一人90分にしています。
 移住した当初は、大森での相談は患者さんが少なくなってきたら辞めようかと思いましたが、一向に減る気配はありません。やはり都会の方がニーズは高いです。ウェブサイトを見て来てくれる人もいますが、多いのは私の知り合いからの紹介です。精神科、しかも自由診療は敷居が高いものです。サイトにいくら良いことが書いてあっても、この先生は本当に信頼できるのだろうか、優しく接してくれるのだろうか、治してくれるのだろうか、、、ということはわかりません。信頼できる人の紹介なら、信頼関係も築きやすいように思います。私のことを必要としてくれる人がいるのなら、東京での診療も続けようかなと思います。
 もう一つの要素は子ども達の存在です。大森の家はもともと私の家族と両親と、二世帯が住んでいました。今は、今年続けて結婚した長男と長女の夫婦二組が住んでいます。彼らもよく高山村に来てくれますが、大森に帰れば彼らに会えます。アラサーの彼らもまだ今後のことはわかっていません。東京にいるのか、他の場所に転居するのか、子供を作るのか自分のキャリアを優先するのか。。。もうしばらくは彼らを見守っていたい。
 そう考えれば、大森の相談室を畳んで、二拠点生活を止めるのは、私が後期高齢者になり、まだ見ぬ孫たちが中学生くらいになり、おじいちゃんの相手をしてくれなくなる頃かなぁなどと、面白くも考えます。

家族の洞窟探検

昨日の家族ミーティングは現地参加・オンライン参加を含めて6名の方々が参加してくれました。

毎回、主宰している私の印象は微妙に異なります。今回は、比喩を使えばみなさん上手に家族の深い洞窟に降りてゆけたなということです。

誰にとっても、「家族」はとてもとても大切な存在です。また、家族は両刃のつるぎです。良い方に向かえば最上の幸せになるし、悪い方向へ向かえば深い闇に落ちてゆきます。家族は閉ざされた存在です。カギを閉めて、外と遮断するから、家族は安全を保つことができます。光の部分は人に見せますが、陰の部分は外の人には見せません。自分の家族のことはわかりますが、他の家族のことはわからないんです。私は仕事がら多くの家族の中に入らせてもらっていますから、どの家族にも光と陰があることは当たり前のようにわかります。しかし、どの家族にも陰があるということは普通はわかりませんから、深い闇があるのはウチの家族だけなんだろうと、自信を失います。でも、実際はどこでもそういうものなんですよ。

陰の洞窟に降りていくのはとても嫌な作業です。自分の家族の洞窟も見たくないから蓋をします。ましてや他の家族の洞窟に降りていく機会はありません。そういう意味で、この家族ミーティングは貴重な体験です。でも、自分のことを、自分の家族のことを語るのは勇気がいります。光を語るのは楽ですが、陰を語るのはとても嫌な作業です。私が週3日診療している病院で家族ミーティングのチラシを多くの方が見てますが、参加される方はごくわずかです。参加されたたけでも、素晴らしい勇気だと思います。

これはとても大切な作業です。洞窟に降り立たないと、家族の陰をどうすることもできませんから。入るのを拒めば、薬などを使って蓋をするしかありません。それでは決して解決しないのですが、苦しいのでとりあえず蓋をします。

家族ミーティングでは何か特別なことを語っているわけではありません。家族は詰まるところ親子(タテ関係)と夫婦関係(ヨコ関係)の組み合わせです。
妻の立場から夫のことを、
夫の立場から妻のことを、
親の立場から子どものことを、
子の立場から親のことを、語っているにすぎません。
それは、何歳になっても同じです。

家族はうまくいけば大きな安心を与えてくれますが、うまくいかないと大きな不安を与えてくれます。うまく繋がれるはずの家族が、うまく繋がれないのは大きな恐怖です。
人は、動物もそうなのですが、危機(恐怖)に直面すると交感神経が優位になります。非常事態の自律神経ですね。そうなると、3Fしかないんです。
Fight)戦うか(攻撃性・暴力・虐待)
Flght)逃げるか(避ける、関わらないようにする)
Freeze)固まるか(ひきこもる、うつになる)

不安・恐怖を抱いている限り、人と人はうまく繋がることができません。
交感神経の反対が副交感神経(安心・平常心の自律神経)です。
交感神経から副交感神経にシフトして、お互い安心をベースにして繋がれば、深い幸せとレジリエンス(困難を乗り越える力)を手に入れることができます。

そのためにも、洞窟探検は大切な冒険なのです。

自分を肯定できなかった時代

茨城県の霞ケ浦126㎞を走ってきました。
このコースは以前にも何度かひとりで走っています。
今回は1000人ほどのイベント参加者たちと一緒に走ってきました。

いばらきK1 ライド2024

大学卒業以来、茨城には何度か足を運んでいます。
しかし、毎回感じるのはこの地に良いイメージがないんですよ。
なぜだろう??そんなことを考えながら走っていました。
走っている時は身体は酷使するけど、頭はヒマだからいろんなことを考えるんです。

どうも、私は茨城にいた頃、自分を肯定できなかったんだ、、、なんていう思いに至りました。
中学・高校時代、私は優等生でした。
中学時代は生徒会役員をやったり、良い成績をとったり。
高校時代はアメリカに1年留学したり、現役で国立大学医学部に受かったり。それらはすべて肯定的な体験でした。
しかし、大学に入ってからは劣等生でした。
国立大学の医学部で劣等生といってもあまり説得力はないけど、ボクの中ではそうでした。
当時、筑波大学は創設されたばかり。先生たちも張り切って、医師国家試験にみんな合格させようと勉強を詰め込まれました。医学部の授業は選択の余地がなく、すべて必修。単元が終わるごとに試験があり、不合格者は追試を受けさせられました。
私は追試受験者の常連でした。私以外にもそういう人はけっこういたけど、辛い体験でした。
このままじゃマトモな医者になれないんじゃないか、、、
もっとちゃんと勉強したいから留年したいと担当教授に相談したら、バカ言うなと一蹴されました。もっともバイトして、旅行して、もう少し遊んでいたいというモラトリアムでもあったのでしょう。
内科や外科といったメジャーな専攻科では優秀な仲間たちにはついて行けないだろうと思い、当時はマイナーだった精神科を志望しました。しかし、教授たちは仲が悪く、ひとりの指導者についたら他のグループからは指導を受けられずハブられました。医学部の権威体制はひどいものでした。弱者であった学生たちがそのとばっちりを受けました。

もちろん良いこともあったのだと思います。
4年間続けたアメフト仲間とは今でも親しくしています。
霞ケ浦ではウインドサーフィンをやりました。夏にはアオコが大量発生してキレイとは言えなかったけど、楽しかった。(今では霞ヶ浦でウインドサーフィンやっている人なんていません)
その仲間の女の子と付き合っていました。筑波山にも何度も行きました。夜、山頂の駐車場で休んでいたら、地元の暴走族に絡まれ、命からがら麓の警察署まで逃げました。
その話が新聞の地方版に載り、仲間たちにからかわれました。
先輩から地元の子はヤバいぞと脅かされ、自信のなかった私は別れてしまいました。今から振り返ればいい子だったんだけどなぁ。もう名前も思いだせないけど、ごめんなさい、私がバカでした。
東京に帰る途中、友達と土浦の寿司屋でお好みで食べるとどれくらいするのかも知らず、電車賃がなくなって引き返して来たり。
好奇心に任せて土浦のソープランド(当時はトルコ風呂)で学生としては高価な遊びをして、帰り道にラーメンを食いながら無駄遣いをしたと後悔したり。
そんなバカみたいな記憶がやけに残っています。

大学を卒業した後は東京やロンドンに生活の場を移し、どうにか職業人として、家庭人としての自信を回復できたと思います。しかし、茨城の6年間を切り出してみると、自分を肯定できませんでした。だから茨城の土地も肯定できないんだと思います。

そんなことを思いながら霞ケ浦を一周しました。
来年も参加するかなぁ??
コースとしては良かったんですよ。