感情の見える化

私のスーパーヴァイジーのひとりが【こころの旅が終わるよ】と題してFacebookに投稿しました。本人の了解を得て、一部編集した上でご紹介します。

 近頃あまり話してない我がバイザーの田村毅先生や、夏合宿でご一緒したお友だちに、その後の自分が何していたか、その他のお友だちには心理士がどんなトレーニングをしているのか知ってもらえたらと思い、少し総括してみることにした。
 自己分析って本当に痛みを伴うので、覚悟を決めること。「この人にだったら傷つけられても大丈夫」と思えるくらいの臨床家としての技量や人間としての信頼を寄せられる師に出会えなかったら、止めた方がいいと思う。
 田村先生とのSVで大きく自分の流れが変わった時の出来事は、決して忘れない。あのセッション後、私はSVの頻度を下げていったくらいだ。あの時、私は自分の中でガチガチになっていたものが、崩壊したのだ。もちろん、それ以前からゆっくりゆっくり崩壊の準備は整っていたのだけど。
 それまでの私は「私が悪いからこのようなことに見舞われる」という思い込みというか、信念があった。だからかもしれないが、「よく生きる」ということに人一倍こだわっていた。
 しんどいことがあると、相手を責めたい気持ちがあるのに、相手に寄り添う努力が足りないからじゃないかと葛藤する。結果的には、頭の中では後者の方が優勢になるので我慢しないといけないのだけど、我慢できる人間じゃないから怒りを抑えつけるのに強大な力が必要になる。
 田村先生とのセッションで、「あ〜、話して理解されて解決するような問題じゃない」と悟ったら、自分で道を作らないといけないんだとどこかで腑に落ちて、先生との対話じゃなくて、もっと経験を通して自分と対話することを選択したのだった。
そして現在。
「人に何と言われようと、どう思われようと、自分がいいと信じているものをやろう」という気持ちになれたのだ。
この自己分析に向けた変化は、今思うと、初参加だった夏合宿に始まった。
多分、あの時も私は怒っていた。その怒りを自分語りに使ったように思う。
「あなた、自分の気持ちを抑えられずイライラを私にぶつけたけと、あなたなんかより私の方がずっと大変なんだ」と訴えたのだ。
あの時に私の光と闇に焦点を当ててくれた田村先生には、とても感謝している。おかげで、私は怒りや恨みを解放することができた。

セラピストとして、また人間としてよく成長してくれたと思います。私に感謝をいただいて、素直に嬉しく、指導者冥利に尽きます。
しかし、別に私には技量があって信頼に足る人ですよ、ということをアピールしたいわけではなく(結果的にはそう読み取られても仕方がないけど)、この成長はバイザーの力ではなく、ヴァイジーの力だよということを言いたいのです。
私が提供できるのは、安心して自分を語れる文脈を作ること。そして、人が誰でも潜在的に持っている力(レジリエンス)を信じて見守っていることぐらいです。

セラピーもスーパーヴィジョンも感情の見える化(可視化)とも言えます。長い人生の中で、怒り・恨み・悲しみ・不安などnegativeな感情体験が増えてくると、自動的に心に蓋をして他者にも自分にも見えなくしてしまいます。そうしないと痛くてたまりませんから。しかし、心が蓋をされちゃうとうまく機能しなくなり、日常生活に支障が出たり、心理職として仕事ができなくなってしまいます。
それならばと意を決して蓋を開けてみますが、一時的に混乱をきたします。自分はこんなにダメな人間だったのか、、、と、がっかりして自尊心が低下してしまいます。蓋をしていた時よりももっと辛くなります。
それを持ちこたえるよう支えるのがセラピスト・スーパーヴァイザーの役割です。人は弱い存在ですから、だれでも「心の闇」を持っているわけで、話してみれば別にあなたが劣っているから、ダメな人間だからというわけではなく、そりゃあそういう状況だったらそうなるよね、と了解可能な「ガッテン」できる話になります。
心の闇が整理されれば、自然に「光」が見えてきます。人はだれでも「心の光」も持っていて、それが一時的に見えなくなっているだけです。それを「見える化」するわけです。
、、、と言葉で説明するのは簡単ですが、たしかに実際やろうとすれば難しい作業でもあります。この方は、よく困難を乗り越えたと思います。

人は弱くも強くもなれる

精神科や心療内科には、いわゆる「メンタルが弱い」と自分で思っていたり、周りからそう思われている人が多く受診します。そのような人々と多く接していて思うのは、本当にメンタルが弱い人も、本当にメンタルが強い人というのもいない。人はいくらでも弱くなってしまうし、いくらでも強くなれる、、、ということです。
心の問題を抱えて専門家を受診すれば、うつ病、発達障害、パーソナリティ障害、統合失調症など、なんらかの診断名が付きます。すると診断名が一人歩きし、その人が持っている属性、アイデンティティのようになってしまいます。「普通の人」とは違う、精神的な病気・問題を抱えている人ということになります。
そのような属性が必要な時もあるでしょう。例えば、薬をもらうために、仕事を休職するために、障害年金を受給する時などです。
しかし、そのような病名も、メンヘル(メンタルの弱さ)も、その人が持つ固定的な属性ではなく、人が生きる状況によって流動的です。つまり、生きている状況により、人はいくらでも弱くなってしまうこともあるし、その逆にいくらでも強くもなれるということです。
その状況とは何か?
他者との関係性です。
人ひとり一人はちっぽけな弱い存在です。ひとりでは生きていけません。
他者の支えがあって、初めて人は人らしく生きることができます。
他者から愛され、見守られ、自分の存在を認められることで、人は安心し、逆境を乗り越える強さを得ます。
逆に、愛され、認めてくれるはずの人がそうしてくれないと、自分の存在意義を見失います。不安の悪循環に陥り人は弱くなります。
いかにして安心できる関係性を築き、維持できるか?
それを支援するのが私の考える家族療法の極意です。
人の安心感や不安感はそう簡単に他者が操作できるものではありません。
まず、支援者が関係性の文脈の中に入り込み、何でも隠さずに話し合える安全な文脈を作ります。
それを実現するために大切なことは具体的なテクニックや介入方法ではありません。
その背後に、支援者自身が安心感を保持できているかということが一番大切です。
私にとって安心できる文脈、、、それが高山村のこの古民家なのです。
古民家療法というのは、私にとっての命名です。
どうやって安心の文脈を作り上げていったかという話です。
それは、ただこの古民家の環境がどうのという話ではなく、私がここにたどり着いたまでのプロセス全体を指します。
他の人生を生きてきた他者が、同じように古民家という場所を使ったとしても、意味が違います。

どういう経緯で私がこの古民家にたどり着いたか。
それを開示することから、私の古民家療法は始まります。

年頭のご挨拶

2022年。
明けましておめでとうございます。
普段は、去年再婚した妻と二人で高山村に住んでいます。東京と横浜に住んでいる成長した子ども達は、普段は寄り付かなくても、お正月にはなぜか集まってくれます。今は、元旦の早朝。これから夫婦ふたり合わせて五人の子ども達が集まり、賑やかなお正月になるでしょう。

昨年の出来事は、、、
6月に2歳下の妹を亡くしました。
この15年間に多くの家族を失いました。
13年前に妻を。
その後、父親と母親を。
そして、妹。
一番初めに最大マグニチュードの喪失が来てしまったもので、その後の喪失は比較的楽だったとも言えますが、妹の死はいまだにどう整理して良いのかよくわかりません。
妻と両親は、私自身が悲しみの一人者であり、堂々と悲しみ、ブログなどにも書きまくりました。妹の場合、悲しむ主体は彼女の夫や子ども達であり、私は傍系だろ、彼らの先を越してはダメだよみたいな気持ちもあり、あまり書いていないんです。
妻の死は、それまで空気のように満ちていた愛着の存在とその重要性に気づかされ、両親の死によって親に対する愛着に気づき、再婚する気持ちに至りました。これらは自分の人生を揺るがす大事件でした。
妹の死の場合、残念ながらそこまでは至りません。現在の日常生活には必要ない人だったからです。でも、大切な家族でした。二人きょうだいで幼少時は仲良く、思春期は派手に兄弟ケンカして、20代にはケンカも落ち着きお互いの友人達と交流してよくスキーに行ったり。お互いに結婚してからは付かず離れず、時々お互いの家族が集まったり、小姑役を演じて私の妻と戦ったり。その妻を失うと近づいて来てくれて、広尾での個人開業中はずっと事務をやってくれました。群馬に移住してからは会うことも少なくなり、私の再婚に到る中でまた距離を離してゆきました。亡くなる1年間くらい会っていなかったのですね。

つい3日前、高校山岳部の仲間の一周忌にあたり、山岳部の仲間たちと「追悼」と称して山岳部ご用達の居酒屋に集まりました。
つい先日、学会の大切な仲間に末期ガンが見つかりました。

「喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただきます。」
悲しんでいる最中だから、喜びたくない、、、その気持ちはよくわかるのですが、私はあえて悲しみと喜びを一緒に味わいたいと思います。なぜなら、その両者は表裏一体だから。
新年を迎え、家族が集まり生きている喜びをお祝いしても、子どもたちはそれぞれの生活の場に去っていきます。生きる喜びは刹那的です。
逆に悲しみからスタートし、人生のはかなさに向き合えば、健康に生きていられる喜びを素直に受け止めることができます。
 私は職業柄、多くの人々の死に関わって来ました。そして、この13年間、大切な人を失い、このように考えるようになりました。