コロナ不安を乗り越える術

先日は皆さんとオンラインですがお会いして対話できたことを嬉しく思います。このような機会が持てたのもコロナのせい、我々が「不安」を共有しているからかもしれません。コロナのpandemicがなければ、あえてこのようなミーティングも開かれなかったと思います。ミーティングでお話ししたことと重なりますが私の気持ちをお伝えします。

★あいまいな喪失 (Ambiguous Loss)
 10年前の東日本大震災の直後、私は被災地のひとつ陸前高田へ駆けつけました。そこは町中が瓦礫の山となり、避難所で生活する被災者たちを支援するボランティアたちが全国から集まっていました。そこで有用だった概念が「あいまいな喪失」です。大切な人や物を失うことはとても大きな心の痛みを伴いますが、もっと辛いのが「あいまいな喪失」です。津波で流され、遺体が発見されれば、そこから喪の仕事(mourning work)を始めることができます。しかし、生きているか亡くなっているかもわからない状況では、悲しみのプロセスさえ始めることができず、いつまでも不安を抱えなければなりません。そのような人たちへの心のケアをどうしたら良いのか。これはとても困難な作業でした。アメリカの心理学者で家族療法家であるPauline Boss氏が何度も日本に招かれ、オンラインも含め我々国内の心の支援者たちを支援してくれました。その活動の中で生まれた二冊の本をご紹介します。

・ポーリン・ボス著「あいまいな喪失とトラウマからの回復:家族とコミュニティのレジリエンス」 誠信書房、2015。
・黒川 雅代子編著 「あいまいな喪失と家族のレジリエンス: 災害支援の新しいアプローチ」 誠信書房、2019。

★不確実さ(不安)に耐える力
 よく考えてみれば、生きていること自体が「不安」の連続です。不安であることを考えること自体が不安ですので、普段我々はそのことをあまり意識化しません。でも、今回のPandemicは世界中の人々を不安に陥れました。とても辛い状況です。しかし、それぞれの人が持つ固有の不安ではなく、全ての人たちが共通した不安を抱えることができます。そこから、人々との対話や交流が生まれます。
 思春期は不安の時代です。幼い子ども時代は親や周りの人たちに保護され安心した生活を送ります(それが叶わない子ども達もいますが)。大人になれば、仕事や家族を持ち、一応それなりに確定した自分の生活を獲得します(そうでもない人たちもいますが)。思春期は親の庇護から自立し、自分自身を作ろうとしますが、高校生くらいの年代ではまだまだ確立できていません。自分はいったいどういう人間になるのだろうか?不安でいっぱいです。
 異文化体験も不安でいっぱいです。見知らぬ土地で、文化も人も言葉も異なる環境に投げ込まれます。受け入れる家庭や学校も同様です。良い子かもしれない、とんでもない子かもしれない。生徒も受け入れる側もそのような不安からスタートします。それが徐々に「安心」に変化していくと、大きな喜びに変わります。
 いったいどうなるかわからない、危険かもしれない、失敗するかもしれない、、、そのような不安に耐えることはとても苦しく困難です。しかし、それを乗り越えた喜びもまたとても大きなものです。
 生きている以上、多かれ少なかれ「不安」を避けて通ることができません。不安を回避するのではなく、不安であることを受け入れることからスタートします。

・レジリエンス (Resilience) =困難から立ち直る力
 この言葉は最近よく聞かれるようになりました。
 反対の言葉は「脆弱性 vulnerability」です。人は誰でも心身を壊したり、病気に罹患する弱さを抱えています。基礎疾患を抱えている人はコロナに罹りやすいというのがその例です。今までの医学は、いかにして人の脆弱性を見出し、それを取り除くことによって病気を回避するかという考え方が主流でした。レジリエンスという概念はそれと対比される新たな考え方です。人は誰でも「弱さ」とともに、困難から立ち直る力(強さ)を持っています。その隠された力を発揮することで人は困難を乗り越えることができます。
第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に収監され、多くの人々が死んでゆく過酷な環境を生き延びた(いわばレジリエンスを発揮した)精神医学者ヴィクトル・フランクルの古典的名著「夜と霧」は我々に苦難を生き延びる勇気を与えてくれます。
平穏無事で順風満帆の時にはレジリエンスは見えません。苦難な時だからこそ、人の本当の強さを活かすことができます。どのようにしたら人はレジリエンスを発揮できるのでしょうか?いろいろな考え方がありますが、私は「人と人との絆」と考えます。強さで繋がることは容易です。弱さで繋がることができると、強さが見えてきます。孤独や孤立は心を弱くします。メンタルのリスク要因です。仲間同士、生徒と家庭、生徒とボランティアなどなど、お互いの不安を伝えあい、認め合い、共有できれば、状況は変わらなくてもその不安を受け止め、生き延びる元気が生まれます。

 以上のように考えれば、苦難のこの時期こそ文化を超えてお互いに支え合う我々の活動には深い意味があるように思います。


 ある支援者のミーティングの後で、田村先生からの言葉が欲しいと求められたので書いた文章です。一応、書いて送ったんですが、こんなので良いのでしょうか?私自身にとっては当たり前というか、陳腐というか、わかりきったことで、あえて書くことのほどでもないように思ってしまうのですが。。。
 そうではないですよね。お伝えする意味はありますよね!