コロナ不安を乗り越える術

先日は皆さんとオンラインですがお会いして対話できたことを嬉しく思います。このような機会が持てたのもコロナのせい、我々が「不安」を共有しているからかもしれません。コロナのpandemicがなければ、あえてこのようなミーティングも開かれなかったと思います。ミーティングでお話ししたことと重なりますが私の気持ちをお伝えします。

★あいまいな喪失 (Ambiguous Loss)
 10年前の東日本大震災の直後、私は被災地のひとつ陸前高田へ駆けつけました。そこは町中が瓦礫の山となり、避難所で生活する被災者たちを支援するボランティアたちが全国から集まっていました。そこで有用だった概念が「あいまいな喪失」です。大切な人や物を失うことはとても大きな心の痛みを伴いますが、もっと辛いのが「あいまいな喪失」です。津波で流され、遺体が発見されれば、そこから喪の仕事(mourning work)を始めることができます。しかし、生きているか亡くなっているかもわからない状況では、悲しみのプロセスさえ始めることができず、いつまでも不安を抱えなければなりません。そのような人たちへの心のケアをどうしたら良いのか。これはとても困難な作業でした。アメリカの心理学者で家族療法家であるPauline Boss氏が何度も日本に招かれ、オンラインも含め我々国内の心の支援者たちを支援してくれました。その活動の中で生まれた二冊の本をご紹介します。

・ポーリン・ボス著「あいまいな喪失とトラウマからの回復:家族とコミュニティのレジリエンス」 誠信書房、2015。
・黒川 雅代子編著 「あいまいな喪失と家族のレジリエンス: 災害支援の新しいアプローチ」 誠信書房、2019。

★不確実さ(不安)に耐える力
 よく考えてみれば、生きていること自体が「不安」の連続です。不安であることを考えること自体が不安ですので、普段我々はそのことをあまり意識化しません。でも、今回のPandemicは世界中の人々を不安に陥れました。とても辛い状況です。しかし、それぞれの人が持つ固有の不安ではなく、全ての人たちが共通した不安を抱えることができます。そこから、人々との対話や交流が生まれます。
 思春期は不安の時代です。幼い子ども時代は親や周りの人たちに保護され安心した生活を送ります(それが叶わない子ども達もいますが)。大人になれば、仕事や家族を持ち、一応それなりに確定した自分の生活を獲得します(そうでもない人たちもいますが)。思春期は親の庇護から自立し、自分自身を作ろうとしますが、高校生くらいの年代ではまだまだ確立できていません。自分はいったいどういう人間になるのだろうか?不安でいっぱいです。
 異文化体験も不安でいっぱいです。見知らぬ土地で、文化も人も言葉も異なる環境に投げ込まれます。受け入れる家庭や学校も同様です。良い子かもしれない、とんでもない子かもしれない。生徒も受け入れる側もそのような不安からスタートします。それが徐々に「安心」に変化していくと、大きな喜びに変わります。
 いったいどうなるかわからない、危険かもしれない、失敗するかもしれない、、、そのような不安に耐えることはとても苦しく困難です。しかし、それを乗り越えた喜びもまたとても大きなものです。
 生きている以上、多かれ少なかれ「不安」を避けて通ることができません。不安を回避するのではなく、不安であることを受け入れることからスタートします。

・レジリエンス (Resilience) =困難から立ち直る力
 この言葉は最近よく聞かれるようになりました。
 反対の言葉は「脆弱性 vulnerability」です。人は誰でも心身を壊したり、病気に罹患する弱さを抱えています。基礎疾患を抱えている人はコロナに罹りやすいというのがその例です。今までの医学は、いかにして人の脆弱性を見出し、それを取り除くことによって病気を回避するかという考え方が主流でした。レジリエンスという概念はそれと対比される新たな考え方です。人は誰でも「弱さ」とともに、困難から立ち直る力(強さ)を持っています。その隠された力を発揮することで人は困難を乗り越えることができます。
第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に収監され、多くの人々が死んでゆく過酷な環境を生き延びた(いわばレジリエンスを発揮した)精神医学者ヴィクトル・フランクルの古典的名著「夜と霧」は我々に苦難を生き延びる勇気を与えてくれます。
平穏無事で順風満帆の時にはレジリエンスは見えません。苦難な時だからこそ、人の本当の強さを活かすことができます。どのようにしたら人はレジリエンスを発揮できるのでしょうか?いろいろな考え方がありますが、私は「人と人との絆」と考えます。強さで繋がることは容易です。弱さで繋がることができると、強さが見えてきます。孤独や孤立は心を弱くします。メンタルのリスク要因です。仲間同士、生徒と家庭、生徒とボランティアなどなど、お互いの不安を伝えあい、認め合い、共有できれば、状況は変わらなくてもその不安を受け止め、生き延びる元気が生まれます。

 以上のように考えれば、苦難のこの時期こそ文化を超えてお互いに支え合う我々の活動には深い意味があるように思います。


 ある支援者のミーティングの後で、田村先生からの言葉が欲しいと求められたので書いた文章です。一応、書いて送ったんですが、こんなので良いのでしょうか?私自身にとっては当たり前というか、陳腐というか、わかりきったことで、あえて書くことのほどでもないように思ってしまうのですが。。。
 そうではないですよね。お伝えする意味はありますよね!

メタ合宿(9月)

9月の連休にメタ合宿を行いました。
参加者は6名。
その内、現地参加者が5名、オンラインが1名でした。
「メタ合宿」はジェノグラム合宿に過去に参加した経験者限定の合宿です。
「メタ」とは「高次の」、「一歩高い視点」、「外側の視点から眺める」といった意味。
初めて参加した人は、ジェノグラムというツールを使って自分と自分の家族を語ります。
うまく語れるだろうか?
語るのが怖い、、、
といった気持ちで参加して、無事に語れたこと自体が大きな体験であり感動であったりします。
メタ合宿では、すでに語った経験をより深めます。ジェノグラムを再度使う場合もありますし、使わずに自由に語る人もいます。初回参加は私がリードして語りを促しますが、メタ合宿で私の役割は安全な環境を提供することがメインです。そうすれば、みなさん自分のペースで、自分の語りを深めてゆきます。

参加者からの振り返りをご紹介します。

まず、私(田村)から。
私にとっても3日間の集中した「合宿」はセラピーやスーパーヴィジョンよりも長い時間をかけるので深い体験の場です。参加したどなたも、前に参加した時と比べ、今回の語りはより深化して、進化・成長しています。そのような姿を見ることができるのは、主宰者としても大きな喜びです。
どのようにして安全な場を作るか、どのように支援するか、どれほど私の当事者性も皆さんに伝えるか、、、回ごとに異なるメンバーが参加するから、そこで構成されるグループの文脈も毎回異なります。その中に私自身も入り込み、どのような役割を演じていくのか、私自身試行錯誤しながら楽しんでいます。

では、参加者の方々から。

毎年恒例の田村先生の合宿。
気持ちが冷めぬうちに、言葉にしてまとめておきたいと思います。
今回は3つの視点から整理してみました。

<言葉の力:心のパンツを脱ぐ>
昨年のメタ合宿の感想で何気なく使った「心のパンツを脱ぐ」というワードが飛び交う合宿でびっくりしました。ちなみに、「心のパンツを脱ぐ」という言葉は、自分にとって安全・安心感を感じられる場で本音で話をするニュアンスで使いました。田村先生のブログを読んで気に入った方は、ご自由にお使いください(笑)。言葉の力の大きさを、改めて実感しました。

<自分の変化:ライフサイクルと変容する自分像 ー 子どもポジションと親ポジション>
今回の合宿も例年通り、泣きました(苦笑)。
来年の合宿でも、きっと泣くのでしょう。泣くつもりなんて、ちっともないのに・・・。
さて、本題ですが、田村先生が書かれた昨年の合宿のBlogを読んで、昨年は支援者としての自分が手応えを得た時間であり、今年は当事者としての自分が、「まぁ、いいや」と思い直せる時間になったのだと思いました。合宿中にも話したのですが、私自身は、基本的に現状の自分をこんなんもんかと受け容れています。しかし、いま差し迫ったテーマになった時、私は揺らぎました。この揺らぎと向き合うためには、自信を喪失した体験を話す必要がありました。話すことに抵抗がないわけではなかったのですが、避けて通れないことも分かっていたので覚悟を決めて話をしました。心のパンツを脱いだわけです。
素のままの自分で、本音の自分で、あれこれ思ったことを話しました。
そして、気づきを得ました。自分の揺らぎの背景には、「親ポジション」の自分像がないことへの不安が反映されていました。それまで両親の子どもという「子どもポジション」で夫婦生活を送っていた私には、「親ポジション」の自分像がなかったのです。
では、「親ポジション」の自分像をどう作るのか? 私の場合は、今の「子どもポジション」を続けながら、自分がイメージとしてもっている父親像を形にしていけばいいことがわかりました。この気づきは、「子どもポジションから親ポジションへの移行プロセス」と言えるのでしょう。そして、自分がすべきことも理解できました。
そして、一周回って、いつもの自分に戻ってきました。
「なんとかなるよ」「まぁ、いいや」と思える思える自分に。

<場の違い>
この体験が、なぜ生まれたのか?ということも考えてみました。「田村先生が作る安全・安心の場だったから」ということが最初に浮かんできたのですが、草津の別荘と古民家という場の違いもあるように思いました。
それは、草津の別荘が、別荘の意味がもつ通り「非日常」な場であることに対して、古民家は田村先生とパートナーさんが生活する「日常」の延長にある場、という違いです。この視点から考えると、古民家は、田村先生とパートナーの2人の生活が、そして2人のぬくもりが家になじんでいるのではないかと思いました。生活は、食べること、コミュニケーション(会話、セックス)、寝ることなど人間が行う行為が詰まっています。これらの営みが行われる古民家は、草津の別荘とは異なり、人肌のぬくもりを、そして人間の営みを感じさせる空間なのではないかと思いました。だからこそ、私の他にも性のテーマについても触れられた方もいらっしゃいましたが、生活に根ざした性のテーマが話しやすくなるのではないかと思いました(この文脈は、レイプ被害等の危機介入としてのカウンセリングとは異なる)。
あくまで想像にすぎないのですが、生活空間の延長にある場所だからこそ、生活に根ざした話題が話しやすく機能もあるのではないかと思いました。

田村)なるほど、それはあるかもしれませんね。今まで色々な場所で合宿を開催してきました。
大学セミナーハウス
リゾート・ホテル
私の別荘(草津)
そして、私の生活の場である古民家
場が持つ力は大きいのですね。
それによって、展開される文脈も大きく変化するものなのですね。

親ポジション 子供ポジション>
合宿で話題となった「親ポジション」「子供ポジション」このことに触れておられた参加者の方の語りを聞いて、ふと田村先生が父親としての役割を果たしておられるのだと実感し、いたくこの場の心地の良さ、守られ感に納得してしまいまいました。
そして、なんの疑問も無く親ポジションを何十年間か続けてきた私が、残りの人生を走り抜けたいのはまさしく親ポジションとしての自分なのだということにも気付かされました。
果たして親ポジションの先に何ポジションがあるのだろう・・・・とぼんやり考えています

オンライン参加
私は今回のメタ合宿参加6名の中で一人だけオンラインで参加させていただきました。
田村先生はもちろんのこと現地の参加者の皆様も一人オンラインの私が疎外感を持たないようにと、色々お声がけくださったので、皆様と同じ気持ちで過ごすことができました。
前回は7月参加で初めてのオンライン開催で田村先生がオンライン合宿でも安心感を醸成できることがわかりましたとブログに書いておられました。私もオンラインであっても前回も今回も安心、安全な空間を共有して3日間を過ごさせて頂きました。
でも一方でオンライン参加は限りなく2.5次元参加だったような、どこかでバーチャルと化すことができるような、違う意味で守られ感(向き合わなくても良い感)があったような気もするのです。
 だから来年は絶対高山村に伺って「こころのパンツを脱ぐ!」と覚悟をきめなくてはと思っています

田村)会って場を共有する関係に勝るものはない。
オンラインの交流には限界がある。。。
と私もずっと思ってきましたし、今でもそう思います。
しかし、コロナ以降、オンラインの活動にすっかり慣れてくると、オンラインでも想像以上に心の交流は可能と思うようになってきました。
合宿も昨年まではオンラインはなし。現地参加に限定してきました。
今年はオンラインや混合(ハイブリッド)も試してみて、十分に可能だという印象を得ました。
オンラインによるカウンセリングもかなり経験してきました。
場を共有していないという限界はあります。
しかし、一つオンラインが優れているのは表情の読み取りです。
zoomなどのオンラインでは顔がクローズアップされます。真正面からの表情なので平板という印象はありますが、細かい表情を読み取ることも可能です。
今、現場の面談ではお互いにマスクを着用します。コロナ以降に出会った患者さんは、目の部分しか知らずに、本当の顔をお互いに知らないのですよ。その点、オンラインでは表情をお互いに見せ合えますから。

昨年の合宿で履いているパンツを脱ぎなさいと言われた当人です。合宿の後には、どうやってパンツを脱ごうかとばかり考えていたのが思い出されます。
今年は、メタ合宿と言うことで「パンツを脱ぐ」ことばかり考えていた自分から、「パンツ」の意味を考えて「パンツ」と向き合う自分にバージョンアップして、合宿に臨もうと思いました。
パンツは自分の隠したい物を包むメタファーとして使われています。
自分はパンツに自分を締め付ける身体感覚を実感しました。
それはパンツ以外のものを履いてみようと思い実験してわかったことです。
本当の自分をさらけ出すとともに、拘束されていることから解放される。それがメタ合宿を経験した後の、自分にとって「パンツを脱ぐ」ことです

田村)心のパンツを脱ぐ理屈がわかっても、実際にできるかというと、そうでもないんですよ。心のパンツは理性ではなくて感覚の問題なので。
出来る人はなにも考えず自然にすんなり脱げるのですが、できない人はいくら考えてもうまくいきません。

私は昔、職場の上司に誘われてゴルフをしていました。
10年以上レッスンプロにつき、コースにもたくさん出たのですが、ついにドライバーで打てませんでした。プロに言わせると、どうも力が入ってしまうらしいのです。
打とうとせず、力を抜いて、クラブを振り下ろすだけで良いのだから。。。
プロに何度も言われ、理屈は分かって、練習場ではうまくいったりもしたのですが、実際にコースに出るとダメなんです。きっと緊張して力が入ってしまうんでしょうね。理屈ではわかるのですが、いくらやってもうまくいきませんでした。
心のパンツも、それに似ているところがあるかもしれません。

昨年の初参加に次いで2回目の参加になります。
 「YOUはなぜ高山村に?」っという質問に対して、ただ行きたいという気持ちだけでその理 由がわからずにいました。
 前回の合宿とは違い、今回のメタ合宿は先生からテーマをいただくのではなく、1人1時間半自由に使って何かをしてくださいというものでした。参加を希望した理由もわからず、何をしにきたのもわからないまま心の中でどうしようと考えていましたが、その時にしたいと感じたことをしようと気持ちを切り替え考えから離れました。
 発表の順番も何も決まっておらず、自主性に委ねられた中でしばらくの沈黙が続きながら自然と各自発表が進んでいきました。このようなシチュエーションの中で、1時間半自分の好きな事に自由に時間を使っていいだなんて、今までの人生でありそうでなかったですし、なんと贅沢で貴重な経験なんだろうと途中で気がつきました。
 自分の順番が近づくにつれ、ドキドキと共に私は何をしたいのだろう?という疑問が大きくなっていきました。そのような状況の中で自分の感性に問いかけてみたところ、自分が以前からずっとこだわり続けてきた「思い込みのドラマの仕組み」について発表したいという気持ちが湧き上がってきました。
 ですが、この仕組みを人に説明するのは初めてでしたし、自分でもどう説明していいのかよくわかっていなかったので、どうしようとばかり思っていましたが、この事しか他に思いつかなかったので、勇気を出してシドロモドロの状態で発表しました。正直、あの時何をどう言ったのかよく覚えていません。
 「それがどうしたの?」と言われても仕方のない独りよがりな内容でしたが、先生をはじめ参加された皆さんの温かい場の空気の中で、私のチャレンジは終わりました。
 このような貴重な体験を終えて、確かに自分の中で何かが変わりました。まさに「心のパンツを脱ぐ」体験だったなと後に気づきました。「心のパンツを脱ぐ」この言葉は一見ユーモラスですが、本当に深い名言中の名言だなと改めて感じました。
 今回の合宿で心のパンツを脱いだ私は、初めて自分が外に出れた感覚になりました。外に出るとは、ありのままの自分をさらけ出せるようになったという事です。今振り返れば、今まで自分は常に自分ではない「演じる自分」で生きてきたなとつくづく思います。例えるならば、ガラス越しに自分を傍観している感覚でいました。今という瞬間を感じる事ができず、常に自分が他人事のような感覚で生きてきました。まさにこれぞ思い込みのドラマで、その中で私は今まで生きてきました。
 今回の合宿は、私がドラマから目覚めるための儀式だったのかもしれません。この合宿は私にとって人生の歴史上に残る大きな出来事でした。

田村)そう、その感覚が大切なんですよ。
正直なところ、説明してくれた内容(理屈)はどうでもいいのです。
あなたが体験に基づき一生懸命考えてきたアイデアは、いわば自分の分身です。それをドキドキしながら表出し、それを大切な他者によって受け止められる体験が何より重要です。他者によって肯定されることで、自分自身を肯定できるようになり、本当の自分を取り戻せるんですよ。
ただ心のパンツを脱げば良いというものではなく、脱いだ本当の自分を自分にとって大切な人がちゃんと見ていて、「それで良いよ!」って受け止めてくれることなんです。

 合宿が終わってから、ものすごい疲れを感じました。その疲れをとるのに数日かかり、休んでから振り返りをしています。
 休んでいる間、モヤモヤと混乱がありました。振り返りに何か特別なことを発見しなければという思い込みがあることに気づきました。ただ自分の経験したこと、思ったこと、感じたことをそのままアウトプットしてみます。

 合宿に行く前は、とても怖かったです。客観的な立場というのが自分にはできるのか?どんな視点に立つことなのか?いま一つ体感できていない自分がいて、とんちんかんなことを言って恥をかく、排除されるという強い思い込みがありました。いくら田村先生が「とんちんかんな発言があってもいい」と言ってくださっても、皆さんの前で恥をかきたくないという思いが強かったです。
 メタ合宿は初めてなので、何をするかわからない未知への不安もありました。とにかく怖い思いでしたが、何か自分のプラスになるものを得られるだろうという期待も同じくらいあって、自分を知る取り組みであることは間違いないので参加することを決めました。
 『自分が何を話そうか?』と考えている時間が一番しんどかったです。
「なぜ合宿に来たか?」という具体的な動機は、
①パートナーとの関係をより良くしたいため
②今後、自分がどんな方向に進んだらいいのか?進みたいのか?
自分の気持ちを整理したいからというのがありました。しかしながら、何を話したら自分の求める答えが出るのか…全くわかりませんでした。ひとまず初日は合宿だからこそ言えることを思い切って吐き出して終わりました

 2日目。何を話そうかもまだまだ決まりませんでした。誰から話すか沈黙が続いたときは、『時間は限られているのだから誰かが話さなければ進まない。でも自分は話す準備はできていない。誰か話してほしい…』と祈るような気持ちでいました。そして、誰かが話し始めるとすごく安心していました。人の話を聴くのも大変なことだと思いました。話を聴いているつもりでいつの間にか意識がどこかへ行ってしまいます。質問については、先生や参加者の方がどんな質問をしているか、注意深く聴いていました。
 2日目が終わり、いよいよ最終日は私が話さなくてはなりません。夜寝る前に自分が発表する内容を考えました。その日発表された方の話を思い返しながら、「自分というものを語るとしたら…」「今までの私の人生は…」そんなことを切り口として考えました。
 『今までの人生の中で一体何を求めてきたのですか?』ーこの問いは、その日に発表した方の語りを聴いていて思い浮かんだ質問でした。しかし、その場で発言する機会を逃し、家に持ち帰った言葉でした。その質問を私自身に投げ掛けてみたのです。
 すると、、、「つながり」ということに気づきました!私は「心のつながり」を求めて今までやってきたのだ!このことを語ろうと決めて、私は準備することができました。

 最終日。たとえ準備したとしても自分を出すことにドキドキ緊張でした。自分を出すことにいつもこんなにも怖く感じるのは、毎回参加者の方が違うからというのがあるかもしれません。特に支援者の方が多いと緊張します。どんな風に自分が見られるのか気になります。ですが一方では、準備できたことを出すことがとてもワクワクでもありました。「私」というものがわかったので、それを皆さんに知ってもらいたいという気持ちがあったかもしれません。昔、『自分が無い』という感覚をずっと持っていた時期がありました。それが今、自分についてわかったことがとても嬉しかったです。怖さとワクワクが混じった状態で、「えーい!出しちゃえ!」という勢いで心のパンツを脱ぎました(笑)。
 すべて出し切った後に、なんとも言えない爽快感がありました。そして、皆さんの反応はとても温かかったです。的確なご指摘も頂き、私の気づきをより深めることができました。安心と共にとても嬉しく、とても有り難かったです。
 『本音を出して、それを受け止めてくれる安心な関係』自分が求めてきたものをこれからは自分が作ることができたら。。。
 私の家庭の中で、子どもやパートナーとの関係をそのように築いていけばいい。合宿に参加した動機を思い返せば、私はその答えを導き出すことができたと、今感じています

 又、合宿前に感じていた怖さ、自分を出す怖さ、そして、ある参加者の方に感じていた怖さ、怖さは全部言語化して皆さんに伝えました。そうすることが安心の一歩みたいに感じていました。怖いと感じていた参加者の方から思わぬ優しいお言葉を頂いて、とても安心しました。なぜその方に怖さを感じたのかを自分を探ってわかりました。
 怖さに向き合えるのは、田村先生がいてくれてのこの古民家の場だからです。怖さを出して安心するという体験を今までも田村先生の場で何度もしています。今回も怖さを出して安心しました。怖さは思い込みなのか!?次回参加するときに、怖さの程度はどうなっているか自分をみようと思います

〈通い参加を選んで。私の場合〉
私は通い参加でしたので、一日が終わると家に帰り、家事や育児をします。家族と会話します。この一旦自分の日常に戻ることから、気持ちをリセットできたり、寝るときなどに一人になって、その日のセッションを振り返ったりという作業ができました。一旦古民家や参加者の方々と離れるそのおかげで、今回私は準備ができたと思います。
 しかし、その一方では、気持ちの切り替えが忙しく、又日常の家事育児をしながらなので、とても疲れました。セッション以外の時間に(合宿が始まる前の時間や休憩時間に)参加者の方々とのコミュニケーションによって安心を頂いたおかげで、緊張や不安がとても軽減したと感じました。この「ほぐしの時間」が貴重でした。今回の合宿でご一緒しました参加者の方々との出会いに感謝しています。次回はぜひ宿泊で参加したいと思っています

田村)怖さ・不安が安心に転換する体験を合宿で経験し、そしてそのプロセスをこのように言語化できたことは素晴らしいと思います。

これこそが、私が考える「心の癒し」の根本なんですよ。心が不安や怖さで満ちていると、心と身体に様々な問題や症状が現れます。でもそのメカニズムは本人もわかりません。不安に向き合うことが怖いから、そのような心は見ないように避けます。
もし、怖さ・不安が安心に転換され、怖さ・不安が消失したら、すべての問題や症状が魔法のように消失します。
怖さ・不安は人との関わりの中で発生します。
また、安心も人との関わりの中で生じます。
不安から安心へ。
その変換をお手伝いするのが支援者です。支援者とは、カウンセラーや精神科医などのプロの専門家に限りません。家族はお互いの支援者です。親子や夫婦は、時に傷つけ合い、時に支援し合います。
自分が不安→安心の転換を経験したら、大切な人にもそのプロセスを促し、安心を与えることが可能になります。
これが私が行っている心の臨床の最も基本の考え方なんです。

昨年より、古民家での家族ミーティングに参加させていただき、参加のたびに元気を取り戻していく自分を嬉しく思っておりました。なぜ元気になれるのか?好きなドライブに一人で出かけられるからなのか、東京を離れ美しい自然に触れることができるからなのか、田村先生と古民家の暖かい雰囲気がそうさせるのか理由はわかりませんでした。合宿は支援者の方が参加するもので、私には縁のないものと思っておりましたが7月のジェノグラム合宿にオンラインで参加し、9月のメタ合宿には古民家で2泊3日参加させて頂きました。
 メタ合宿では、安心して自分を語ることができたこと、3日間皆さんと過ごした暖かな時間に心から感謝しています。
 話をすることに緊張もありましたが、話した後は安心して家族の中にいる様な時間でした。難しいけれど言葉にして話すこと、それを受け入れてもらうことの大切さを実感しました。自分自身について、私の原家族についてゆったりとした時間の中で思い起こすこともできた貴重な時間でもありました。そして、どれだけ私の両親、姉妹が私に何でも話せる安心感を与えてくれていたことかと感謝する自分に気づきました。

 一方、私自身は、その安心感を子供達に与えることができていたかと言うとそうではありません。世間から評価される学校へ進学すること、世間から評価される仕事に就くことが子供の幸せに繋がると思っていました。また、そのことで自分が良い母親と認められることを望んでいたのかもしれません。効率的に時間を使い、要領よく勉強・生活することを子供達に求めて、逆にそれが出来なかった時の心配・不安感を与え、子供達を幸せな感覚から遠ざけていたのかもしれません。
両親が私に与えれくれた様に、安心・安全を感じて生活できる家庭、安心して何でも話せるような場を子供達に与えられる様になりたいと思います。その為には、まず私自身が安心・安全を感じることが必要なのだと改めてこの合宿で学びました。
 家族ミーテイングに参加することで元気になれたのは、田村先生が提供してくださる安心・安全な場で自分の思いを言葉にすることができるからなのです。子供達が、安心して自分の思いを言葉にできるようになり、自分のエンジンで人生を切り開いていけますよう祈る気持ちで一杯です。

今まで合宿は支援者(専門家)に限定していましたが、今年から専門性の有無を問わず全ての方に開放しました。
今年の合宿に参加した皆さんのことを振り返ると、支援者・非支援者の区別はそれほど重要ではないように思いました。合宿で体験することはそのような区分けを超えた深い人間性にアプローチします。そこに至るには二泊三日に耐える集中力と、決心と、深い自分を振り返ろうとする自分自身への信頼感をお持ちなのだろうと思います。表面的には自己否定されている方でも、心の奥ではどこか自分を肯定されているように思いました。そうでなければメタ合宿に参加する勇気は持てないと思います。
今回(あるいはいつもの)合宿に参加された方々の人間性のレベルはとても高いと思います。

安心を生む対話・不安を生む対話

<学会>
先週の家族療法学会は2年ぶりの現地開催(現地とオンラインのハイブリッド)でした。
この学会には20代の若い頃から参加しています。その頃は、心臓が飛び出るほどの緊張を生みました。学会発表をしても、どうか何も質問が出ませんようにと願っていました。
懇親会では壁の花でした。誰にも話しかけられず、さっさと飲み食いして退散していました。

それが30年経った今では、毎年交流する仲間達との出会いの場になりました。
懇親会では真ん中のテーブルに陣取り、「先生と話したいから」と寄ってきてくれる若い人たちににこやかに応えたり。お開きになれば、まわりを見渡して二次会に繰り出す仲間を探します。
若い頃のように自分から申し込んで研究発表をすることはなく、一般演題の座長・シンポジウムの司会やシンポジスト・ワークショップの講師ばかりやってます。
本当は歳を取っても基本に返り、私自身の研究発表もしなくちゃいけないのですが。
今では、発表した後に質問がないと、物足りないなぁ、受けなかったのかなぁ、わからなかったのかなぁと心配になります。

これほど慣れ親しんだ学会ですが、2年ぶりに会場に来て、馴染みの顔に出会っても、初めはちょっぴり緊張しました。仲間と出会っても、忙しくて無視してスルーされる場合もある。するとちょっと心配になります。その後に再び出会って、「やあお久しぶり!」と二言三言会話を交わせば、ああ良かった!と安心します。

今回、事例発表の座長をやりました。
多くの場合、成功例を出すのですが、今回の発表者は失敗例を出してきました。
私:よく失敗例を出せましたね!
発表者;勉強しようと思って、勇気を出して発表しました。
その勇気はどこからやってきたのですか?
スーパーヴァイザーの先生とのやりとりからです。
スーパーヴィジョンは良いですか?
はい、このケースを経験してからSVを受けようと思いました。

オープンダイアログのワークショップを斎藤環と大井雄一と一緒にやりました。
テーマは、「対話」が問題を解決する。
安心・安全(コロナで言い尽くされた言い尽くされたセリフですが)の対話とは、、、
モノローグではダメなんですね。
ダイアローグ(対話)が必要なんですね。
ヒエラルキー(タテ関係)ではなく、フラット(平等)な関係の中でお互いの声が発せられ、受け止められる体験です。
参加者からのメールを紹介します。
「温かい雰囲気の中でふんだんに対話やレクチャー、そしてたっぷり休憩がありとても良かったです。」

対話(人と人との関わり)は安心か不安かどちらかを生みます。
学会はまだ良いんですよ。年に一回だけのイベントですから。

<学校>
学校は毎日行くところですから、その影響は大きいです。
未だに新型コロナの流行で、この9月からの新学期は休校だったり分散登校だったり。
テレビのニュースでは、学校に通えなくて子どもたちのストレスが心配、という報道が流れます。それは、学校という場が安心に感じられる子どもたちの場合です。
学校=友だちがいて楽しく、安心できる場。
というのが主流の見方(ドミナント・ストーリー)なのですが、
学校=不安を生む場。
と感じる子ども達だって多くいます。でもそれはマイノリティー(規範からズレている価値)なのであまりニュースのストーリーとはなりません。
その一方で、夏休み明けの新学期は子どもの自殺が多い時期。
というストーリーは割と一般的になってきたと思います。ごく最近ですけど。
20年前は、こんなストーリーがマスコミに載ることはありませんでした。
学校は行かなくてはいけない。。。というのもドミナント・ストーリー。
小中学校は行くのが義務だし、
高校・専門学校・大学だって、立派な人になるためには、国の教育レベルを高めるためには、行くべきところなのです。
だから、学校に行かない選択肢は、どうしても苦悩を生んでしまいます。
別に、行きたくなければ行かなくても良いじゃん!
というわけには、なかなかいきません。

<家族>
家族の影響はもっと大きいです。
家族と一緒にいることが安心を生む場合。
逆に不安を生む場合もあります。
家族はプライベートな密室だから、そのどちらか周りからは見えないし、自分たちも気づきません。しかし、私の視点からはよく見えてしまいます。
学会が不安・緊張を生む場としても年1回だしどうにかやり過ごせば良いのですが、家族は毎日の生活の場。そういうわけにはいきません。家族は参加しないわけにはいきません。特に子ども達にとっては。不安な場の中で生活してれば、当然なんらかの問題を生じます。
問題が生じれば、誰もが「問題だ!」と認知できます。でもその背後にある家族・学校などの場(システム)が安心・不安のどちらかは認知できません。
同じ場でも人によって感じ方が違いますから。同じ学会でも、以前は極度に緊張する不安を生む場でしたが、今は仲間と再会できる安心の場です。

子どもが学校に行けなくなったり、友だちが怖くなったり、リスカしたり、ネット依存症になったり、眠れなくなったり、身体に原因不明の痛みや症状が出たり、イライラして暴力をふるいだしたり、、、
そういう問題は誰の目にも見えやすいですが、その問題だけに焦点を合わせてあの手この手で解決しようとしてもうまくいきません。その背後に不安の文脈が隠されていると、、。

その不安の文脈を安心に変えていくのが古民家療法です。
どうやったら安心の場(システム)を作っていけるのか?
その一つの鍵が「対話」です。
安心を生む対話とは?
不安を生む対話とは?
そのあたりも明確に説明していきたいと思いますが、ひとつ言えることは、
対話がないこと。
これは確実に不安を生みます。
不安な対話を繰り返すと、それを避けるために対話をストップしてしまいます。
対話があるはずのシステムに、それが起こらないと、そのこと自体が不安を生みます。その悪循環に陥ると、固定化してしまって、なかなかうまくいきません。
、、、(続く)