12月26日(土)「事例から学ぶ家族療法セミナー」今回は3回目、「親の夫婦療法と子どものひきこもり・摂食障害」の事例をもとに展開しました。ひきこもり・不登校・摂食障害などの問題を抱える二人の子ども達の相談に、ご両親が5年間に渡り(だいたい1−2ヶ月に一回の頻度で)通い続け、本人とは一度も合わず親面接だけで子ども達は元気になっていきました。参加者からのフィードバックをご紹介します。
今回、初めて家族療法教室に参加しました。昨年度よく参加させていただいていた「子どもと家族の研修会」と異なり、講義形式の進行で内容も専門性が高く、家族療法や心理療法の基礎知識がなければ理解するのは難しいと思いました。しかし、セラピーの中で起こった現象を理論と結びつけて説明してもらえたので、臨床現場に身を置いている者には示唆に富むお話でした。終わった後、「聴いてよかった」と胸が高鳴りました。
田村先生は海外で仕事をすることも多く、西洋の家族システムについて詳しいこともあり、日本をはじめアジア圏の特異性をわかりやすく解説してくださいました。日本にいると、自分たちの家族システムが身近すぎて見えないことがたくさんありますが、西洋との比較により、いかに日本が大家族でシステムを作り上げているのか、嫁が嫁ぐとどんなシステムが発動するのか、ハッとするようなことがいくつもありました。
また、問題を表出している個人ではなく、家族全員に広く目を配り、抱えながら丁寧に個人面接や夫婦同席面接を織り交ぜてケースを動かしていく様子から、すぐに効果は出なくても粘り強く関わることの大切さやセラピストの包容力の重要性を見せてもらったように思っています。
セラピストを信頼し、よくなりたいと頑張る家族の力と、それを受け止め家族の健康的な力を引き出すセラピストの相互作用があってIPの症状が改善していったことを考えると、個人に関わるだけでは限界があり、全体を見る力を養っていくことが大切だと思いました。いくつか補足説明いたします。全体を見る力これこそがシステム論的な視点の中核なんです。私はよく「木を見て森を見ず」という比喩で説明しますが、みなさんそのことはよくわかってくれるんですよ。しかし、実際の臨床現場になると、この見方は忘れ去れてしまうんです。それはなぜかと考えると、科学的方法論の根底にある還元主義(reductionism)に行き当たります。物事の本質を見極めるためには、どんどん分解していって、より細かく、ミクロの世界に入っていく。それが「正確さ」に繋がるという価値観です。例えば、単に「お腹が痛い」というだけではその本質はさっぱりわからないけど、内視鏡で胃潰瘍が見つかりました。組織を顕微鏡で見たらがん細胞でした。がん細胞をDNAレベルで治療していきましょう。つまり、症状から身体の状況へ。外から見えない中身に迫り、組織→細胞→分子レベルと、より細かく分析していきます。子どもが学校に行けない、食事が取れない、だけじゃ本質は見極められず、甘えてるからだとか、親のしつけや友だちからのいじめが悪いんだくらいに漠然とした原因論しか見極められません。そこに、脳の認知機能の異常だ、発達障害だなどという視点があれば、まだ納得しやすいのです。一つの木に問題があれば、森全体を見渡すより、どうしても木の中身を細かく観察したくなるのは当然でしょう。その視点から離れ、全体を見るエコロジカルな視点とはどういうことなのでしょうか?心理臨床において、個人(一つ一つの木)を取り囲む森は何なのでしょうか?それは個人が生活する場としての家族や職場、コミュニティーというのはわかります。さらに、その森を取り囲む全体像は何かという時に、文化やジェンダーという視点が出てきます。今回のケースで説明したことは、、、アジアの家族は親子間の絆が強いとされています。戦後社会のライフスタイルは核家族化していますから、実際に生活している家族は個人単位、あるいは二世代の核家族であっても、その根底にある家族観:自分の家族はどこまで含まれるかと問われれば三世代、四世代の大家族像が見えてきます。それはアジア家族の価値、つまり我々にとっては当然なのですが、独立主義(individualism)の欧米文化では、いつまでも拡大家族がひっついていたり、成人しても親子の結びつきが強いというのは病理的・依存的と見られてしまいます。彼らから見ればアジアは集団主義(collectivism)なのですが、アジア森の中にいる我々にとって、それは名前をつけることもない、ごく当たり前のことです。
自分の「家族」はどこまで含まれるのか:核家族か拡大家族か?そこにジェンダーによる価値観の差が出てきます。多くの男性は拡大家族を、女性は核家族をより志向します。今回の夫婦は学生時代から仲の良い恋人でしたが、結婚して夫の親と同居する話になり、妻はびっくりしました。友達に相談しても、まあ何とかなるわよということで、疑心暗鬼のまま二世代同居を始めました。しかし、ダンナは自分の親とより繋がっているんですね。妻は自分だけ外されたようて疎外感を味わいます。妻とすれば自分の家族は当然、夫と子どもたちであり、義父母は含まれません。一方、夫にとっての家族とは自分の両親も当然、含まれるわけです。森の境界線はどこまでかというダブルスタンダード:夫婦間の相違がトラブルの発端です。義父母とうまくやっていけない妻の技量の狭さ・性格の問題でしょ!妻より親を優先してしまう夫の親離れできていない未熟性でしょ!と、子どもの周りにいる父親と母親という個別の木の問題と捉えることもできますが、それではまだ「森を見ている」ことになりません。夫も妻もしっかりした素敵な人たちです。妻は結婚前やりがいのある仕事を持ち社会で活躍していました。夫も有能な社会人です。子ども達の問題について、両親揃って熱心にカウンセリングに通い続けていました。女性は昔から別れの儀式を経験してきました。自分の原家族と別れ、夫の家族に「嫁入り」します。新しい家族システムには若年の女性という一番下のポジションからスタートするわけで、うまく入り込めばラッキーですし、そうでなければ苦労します。女性にとっては戦後の欧米的核家族観の方が有利ですからいち早く変革してきました。一方、男性、特に長男は親の扶養義務(親孝行)もあるわけで、原家族との「別れ」は経験しません。いつまでたっても、結婚しても、自分の親は家族であり、離れて暮らしたとしても、何かあったら息子が責任を持たねばなりません。この男女の意識の差は未熟性とか病理性ではなく、文化的・歴史的流れの中での当然のダブルスタンダードな訳で、どちらが悪いというわけではありません。二人とも一生懸命自分の価値の中で生きているにすぎません。このダブルスタンダードを話し合い、認め合えるだけのコミュニケーションの機会があって、お互いに調整し合えば何も問題なかったのですが、夫の仕事も忙しく、若い時代の夫婦にはその余裕がありませんでした。そのことを、子どもに問題が生じてセラピーにやってきて、やっと話し合うことができました。この夫婦がカウンセリングにやってくると、いつも子どもの話題から始まるのですが、15分くらい話を深めていくと、必ず夫婦葛藤の問題に移っていきます。私の方からは心理教育の技法やジェンダー論・文化論などもお話ししながら、夫婦が過去と現在の家族の痛みについてよく話し合い、少しずつ折り合えるようになってきました。結局、この家族カウンセリングは5年かかったのですが、その間に子ども達は10代後半から20代へと成長し、親から見ればちょっと期待はずれだったりしますが、客観的に見れば発達課題のチャレンジをそれなりにちゃんと乗り越えて、当初の問題は徐々に消滅してゆきました。
どの木に問題があるのだろう?と、悪者探しをすることなく、文化・ジェンダーという広い森全体の特性を視野に含めたセラピーの例でした。